ピアノを愛す~変わらぬクラシック音楽で生老病死の苦悩も超える【暮らし・音楽エッセイ】

わたしは音楽大学でピアノを専攻して最初の職業がピアニストだった。クラシック音楽を幼いころから湯水のごとく聴き、弾き続けてきたが、未だにまったく飽きない。それどころか、もっと、もっとと、深淵なる世界への誘いを求めてしまう。

そんな愛すべきクラシック音楽は300年もの時を経て今でも音楽家たちを魅了し続ける。

基本的にクラシック音楽は楽譜に沿った忠実な演奏が求められる。また、その演奏方法が何百年も変わらないのだ。

それでもたいがいの演奏家は口を揃えて言う。変わらないのが面白いと。演奏家の端くれであるわたしもそう思う。

クラシックの名曲には、偉大な作曲家のが込められている。その魂の力で300年前の楽曲が、現代でもまったく色褪せないのだろう。

長い時を経ても衰えない。迫力がある本物の世界。一方で変化変化の渦中に生きるわたし達。インターネットが普及してからは、新しい環境、新しい製品が簡単に手に入るようになった。

しかし、今では最新の情報や製品でさえも、すぐに古くなる。しかもそのサイクルはどんどん速まっているのだ。

ここで、変わらぬクラシック音楽を生業にしてきたわたしが感じることは、いかに技術が進歩しても、人間の生き様に関わる生老病死みたいな根本的な悩みはなくならないということなのだ。

だからこそ思うのは、生きた哲学にも通じるクラシック音楽を生活の中に取り入れてみたらどうか・・・という提案だ。

出身の音大ホール

誰でも、一曲ぐらいは、親しみのある名曲がきっとあるだろう。300年もの間、人々に愛され続けた曲。苦しみや悲しみを癒す曲など。

たった一曲持つだけ。これで深淵なクラシック音楽の愛好家になれるはず。

ちなみに、わたしの究極の一曲 バラードOp,2 ショパン作だ。これを弾くために音大へ進んだ。卒業演奏では、恩師の勧めでポロネーズを弾いた。これも時の運。

いつまでも憧れが尽きないクラシック音楽。ぜひ、一曲どうぞ。

ここで、以前のブログからエッセイを1本。

~ピアノを愛す~

●10年前の脳出血での後遺症による体の麻痺で、最近はピアノも前ほど弾かなくなっている私だが、演奏家としてだけでなく教育者としても弾けなくなってしまったあの大病。あの時、私の人生の支えだった音楽家としてのポジションが、心の中でがらがらと音を立てて崩れ去ったのだった。

突然の失意だったが、ハッと!気が付いたことがある。わたしは改めて見直すと、音楽にしみついていただけだったのではないかと。しかもその当時は、生活の糧でもあり、質より量をこなしていた。

音楽教室の運営にも刷新が必要な時期だったこともあり激務をこなす毎日。しばらくして、まったく別の出版社の営業職という形で、ビジネスウーマンとして働くことに決まった。そして発病。

それからは音楽が自分にとって純粋に精神的な支えとなってきたと感じている。

● もう、音楽の仕事にはしがみつかなくてもいいんだ、演奏を自由に楽しもう!と肚に落ちた事だったから、悔しくても後悔することは、当時ほとんど無かったと思う。それからは、毎年、秋には新しい曲を弾くために楽譜を用意する習慣ができた。自分だけの楽しみ。誰かに聴かせるわけでもなく、一人難曲に挑戦する至福の時間だ。

● 楽器が演奏できるということは、言葉にならない自らの思いを音楽に乗せて表現できる事だ。そうする事で、人生をより一層、豊かに魅力的に輝かせてくれるもの。

まるで、野に咲く花のようである。自分の手元になくても、そこにいけば厳然とある。決して摘んだりせずに眺めて楽しむことで十分な世界。音楽も手に取れない。でも音だけが流れる時間がそこにはあって所有しなくても躍動している。

 わたしはそこに深い価値を見出せたから、心豊かに人生を奏でられる音楽を愛おしくずっと携えていける財産だと心から思えるのだ。

● わたしの母は、わたしが学校に行っている時間にひとり弾けないピアノを良く奏でていたと、晩年になって本人から明かしてくれたことがある。

 そういえば、子どもの頃「いいねぇ みーちゃん(私の呼び名)はピアノが弾けるんだもんね」と、良く言っていた。それは自分が弾きたかったんだと思うし、でもだったら習えばいいじゃない!とは、一度も言えなかったわたし・・・。

 多分、厳しい練習やレッスンの現場を、わたしを通して長い間見てきたから自分には到底無理なことだと思っていたよう。また、父が副業で作った零細企業の雇われ社長を任されていて、人も雇っていたから時間的にも無理と諦めてしまったのかも知れない。

もうすぐ新盆なので母のことを思い出して加筆した。

● わたしにとっての楽器とは、特にピアノは弾く楽しみだけでなく、聴く楽しみも与えてくれるもの。偉大な作曲家の書いた楽譜を新たに一から勉強すると、また一つ新しい世界が開けてくるのだ。

 一生かかっても弾ききれない曲の数々。そこから新たに弾きたい曲を、仕事とは関係なく自由に選んで勉強できるだけの素養を、音楽大学で学ばせてもらった。本当に両親には感謝してもしきれない。

 私の専攻したピアノは一人で合奏できる多様な楽器、とても雄弁だな~とつくづく思う。自分の自己表現の手段としても、大切にして行きたい数少ないわたしの無形財産だ。

 6歳から初めて、もう約50年近くも一緒に生きてきた私のピアノ。今でも始めの1音を出すと全身の毛穴が全開するような錯覚に陥る。

そこから始まるわたしだけの音は、やっぱり誰にも譲れない最高の自分時間なのだ。

“ピアノを愛す~変わらぬクラシック音楽で生老病死の苦悩も超える【暮らし・音楽エッセイ】” への2件の返信

  1. 「合歓の花 心に馴染む 心地かな」 清流
     私は「楽を奏でる」というのは、人間性に響く所作だと感じる。特にクラシックはなぜか普遍性があり、Jazzのようなアドリブ演奏とは違い、一定のパターンの良さがあるよね。

    1. 合歓の花、静岡のヤマハでは合歓の郷という音楽パークがあり、
      幼い頃から20代になるまで家族や友達と行っていました。
      懐かしのポプコンも常連(笑)

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